眼球運動、表情の変化、心理的逆転のないスーザン・ボイルと天狗。
わたしはもっと書きたい。わたしには書きたいことがある。わたしは書かなくてはいけないんだ。今が書くときなんだ。でも書けない。なんで書きたいのに書けないんだろう、というようなことがここのところずっとありました。書くことともうひとつ、やることがある気がするのですが、それはまだ自分でもちょっとよくわからないでいる。そしてそれをやるために、収入をあげないといけないと強く思う、その反対に働くのが嫌!というのが、もしかしたらそれ以上にある。
そんな状態で、セルフEFTをはじめて最初は大きな効果を感じたものの、変化を感じられなくなってきて下肢の浮腫がひどくなり、検査をしたけどなんだかよくわからない、というのが今の状態です。薬を飲んでも治らない、幸か不幸か仕事を休むほどではなく、かるい疲労感を感じ続けている。そんな今日この頃でありまして。
それで心理的逆転についてずっとしつこく考えていて、眼球運動になにかヒントがある気がして、EMDRについて調べてみたり、いろんなセラピーの主に心理的掘り下げを行うようなセラピーの動画を見たりしていました。地味につづけてるセルフEFTだけではあきたらず、個人セッションを受けてみたりもしています。いまのところセルフよりもここがすごい!という感じはまだ感触としてはなかったりしますが、ちょっとしたヒントはもらった気がします。
はじめて受けた先日は、セッションのテーマも二転三転して、結局、家族関係にフォーカスしてのセッションになり、最後に今日から家族との関係改善につとめます、というような、約束をして終わりました。
わたしは、「家族だから仲良くしなくていけない」という価値観から解放されて救われた人間なので、ちょっと心外だなと思いました。セラピストの価値観でコントロールを受けたという感じをもってしまったからです。
うちは家庭環境が非常に複雑で、それを説明するだけで小一時間かかっちゃうので、できればコンテンツフリーな感じで感情や身体症状をテーマにやってもらいたいのですが、EFTはアファメーションで変化を促す感じなのでしょうがないんでしょう。今後に期待です。
でもやはり、これはコンテンツフリーでできるはずだと言う気がします。そこにしつこく食い下がっているわたしですw自分でためして実感があったトリガーポイントが小指と眼球です。
それで、なぜ、わたしは眼球にこだわるのか?と考えていたとき、10年ほど前に受けたガイドヘルパー講座の実技を思い出しました。目隠しをして、誘導者の肘を掴み、街を歩くというそれだけの実技ですが、これはわたしにとってとても印象に残る体験で、視覚を閉ざした世界というのが、これほど自由でたのしいものなのか!という感動の体験になりました。それは想像もしていなかったことでした。視覚にたよることで、反対にどれだけ見落としているものがあるんだろう、そんな発見がありました。
わたしが瞑想を嫌いなのも実はそのせいなのでは、と今思いました。視覚を閉ざしたときにやがて広がる感覚は、全能感といってもいいくらいの気持ちよさで、そのために現実に戻れなくなるのがこわい。いやそうじゃなくて、現実に戻った時に苦しさが増すから、それがこわい、そんな感じかもしれません。
うちのオババとか、日頃接している高齢者のみなさんでもそうですが、目が見えなくなるのが一番つらいとよく言われています。そうだね、どこがわるくなってもつらいけどね、とその度に答えますが、わたしはそうでもない気がしてしまう。躰の自由が奪われたとき精神の自由がひろがると考える。
わたしたちは視覚に頼りすぎる。見た目が全てのように感じている。でも、視覚がもともと無かったらどうだろう。もっと早くに物事の本質にたどり着けるんじゃないだろうか。そんなことを思ったりしています。
そんな状態で、セルフEFTをはじめて最初は大きな効果を感じたものの、変化を感じられなくなってきて下肢の浮腫がひどくなり、検査をしたけどなんだかよくわからない、というのが今の状態です。薬を飲んでも治らない、幸か不幸か仕事を休むほどではなく、かるい疲労感を感じ続けている。そんな今日この頃でありまして。
それで心理的逆転についてずっとしつこく考えていて、眼球運動になにかヒントがある気がして、EMDRについて調べてみたり、いろんなセラピーの主に心理的掘り下げを行うようなセラピーの動画を見たりしていました。地味につづけてるセルフEFTだけではあきたらず、個人セッションを受けてみたりもしています。いまのところセルフよりもここがすごい!という感じはまだ感触としてはなかったりしますが、ちょっとしたヒントはもらった気がします。
はじめて受けた先日は、セッションのテーマも二転三転して、結局、家族関係にフォーカスしてのセッションになり、最後に今日から家族との関係改善につとめます、というような、約束をして終わりました。
わたしは、「家族だから仲良くしなくていけない」という価値観から解放されて救われた人間なので、ちょっと心外だなと思いました。セラピストの価値観でコントロールを受けたという感じをもってしまったからです。
うちは家庭環境が非常に複雑で、それを説明するだけで小一時間かかっちゃうので、できればコンテンツフリーな感じで感情や身体症状をテーマにやってもらいたいのですが、EFTはアファメーションで変化を促す感じなのでしょうがないんでしょう。今後に期待です。
でもやはり、これはコンテンツフリーでできるはずだと言う気がします。そこにしつこく食い下がっているわたしですw自分でためして実感があったトリガーポイントが小指と眼球です。
それで、なぜ、わたしは眼球にこだわるのか?と考えていたとき、10年ほど前に受けたガイドヘルパー講座の実技を思い出しました。目隠しをして、誘導者の肘を掴み、街を歩くというそれだけの実技ですが、これはわたしにとってとても印象に残る体験で、視覚を閉ざした世界というのが、これほど自由でたのしいものなのか!という感動の体験になりました。それは想像もしていなかったことでした。視覚にたよることで、反対にどれだけ見落としているものがあるんだろう、そんな発見がありました。
わたしが瞑想を嫌いなのも実はそのせいなのでは、と今思いました。視覚を閉ざしたときにやがて広がる感覚は、全能感といってもいいくらいの気持ちよさで、そのために現実に戻れなくなるのがこわい。いやそうじゃなくて、現実に戻った時に苦しさが増すから、それがこわい、そんな感じかもしれません。
うちのオババとか、日頃接している高齢者のみなさんでもそうですが、目が見えなくなるのが一番つらいとよく言われています。そうだね、どこがわるくなってもつらいけどね、とその度に答えますが、わたしはそうでもない気がしてしまう。躰の自由が奪われたとき精神の自由がひろがると考える。
わたしたちは視覚に頼りすぎる。見た目が全てのように感じている。でも、視覚がもともと無かったらどうだろう。もっと早くに物事の本質にたどり着けるんじゃないだろうか。そんなことを思ったりしています。
スーザン・ボイルがさえない田舎のおばちゃんとしてステージに立った時の観衆の表情がとても興味深いです。その後の拍手と喝采もまたこの最初の登場のときの印象とのギャップがあっての興奮なのだと思います。このあと彼女は眉も段々細くなり多少は見栄えよく洗練されていきますが、趣味のちょっとアレなところも彼女の個性として受けいられて、顔つきと立ち姿がとても堂々としていきます。
田舎で歌がうまいけどちょっと変なおばちゃんとして生きていた時と、夢がかなって歌手としてスポットを浴びてゆくことのギャップ。ここにうまれるプレッシャーは生半可なものではないでしょう。このストレスはただのおばちゃんには受け止められるものではない。スーザン・ボイルはそれを受け入れる器の持ち主だったんですよ。静かな生活を送りながら自分のうちにそんな底力を温存してた。時計を逆にして、未来から過去を眺めてみるとおもしろい。叶った時点から、田舎で歌手を夢見てる時間を改めて見ると、その静かな暮らしはとても特別な時間に思えてきます。
心理的逆転のないひとはたぶんいません。現代の社会のシクミがそうだし、教育がそもそも逆転してます。社会に出ても、夢をもって目的に向かって努力しろといい、ありのままのあなたがすばらしいと言う。個性的であれと言い、空気を読め、みんなと合わせろと言う。
ミルトン・エリクソンが、ポリオから回復してゆく過程で、赤ちゃんの成長過程をなぞったと、昔読んだことがありました。わたしは生まれてすぐ斜頸の治療のために、頭を砂袋で両側から固定されて一定時間をすごしていたそうです。そのことはまったく記憶にはありませんが、もしもその体験がなかったら、と考えてしまいました。寝返りも打てない時期に頭が固定されるということは、まだ力のない手足と眼球だけしか動かすことができないということです。自分の身体が自分の自由にならない、自分は何をしても無駄だという、人生を通してわいてくる無力感につながる気がします。
赤ちゃんは保護してくれる大人や、動く物を目で追います。固定された頭で目だけを動かして、わたしは何を見ていたんだろうか・・・などと考えつつも、原因をさかのぼり突き止めたところで、なんになるのかという気持もなくはない。でも、でてきたものはなかったことにはできないし、どこまで遡るか、それは自分でコントルールできる種類のことではないのかもしれないなと。
田舎で歌がうまいけどちょっと変なおばちゃんとして生きていた時と、夢がかなって歌手としてスポットを浴びてゆくことのギャップ。ここにうまれるプレッシャーは生半可なものではないでしょう。このストレスはただのおばちゃんには受け止められるものではない。スーザン・ボイルはそれを受け入れる器の持ち主だったんですよ。静かな生活を送りながら自分のうちにそんな底力を温存してた。時計を逆にして、未来から過去を眺めてみるとおもしろい。叶った時点から、田舎で歌手を夢見てる時間を改めて見ると、その静かな暮らしはとても特別な時間に思えてきます。
心理的逆転のないひとはたぶんいません。現代の社会のシクミがそうだし、教育がそもそも逆転してます。社会に出ても、夢をもって目的に向かって努力しろといい、ありのままのあなたがすばらしいと言う。個性的であれと言い、空気を読め、みんなと合わせろと言う。
ミルトン・エリクソンが、ポリオから回復してゆく過程で、赤ちゃんの成長過程をなぞったと、昔読んだことがありました。わたしは生まれてすぐ斜頸の治療のために、頭を砂袋で両側から固定されて一定時間をすごしていたそうです。そのことはまったく記憶にはありませんが、もしもその体験がなかったら、と考えてしまいました。寝返りも打てない時期に頭が固定されるということは、まだ力のない手足と眼球だけしか動かすことができないということです。自分の身体が自分の自由にならない、自分は何をしても無駄だという、人生を通してわいてくる無力感につながる気がします。
赤ちゃんは保護してくれる大人や、動く物を目で追います。固定された頭で目だけを動かして、わたしは何を見ていたんだろうか・・・などと考えつつも、原因をさかのぼり突き止めたところで、なんになるのかという気持もなくはない。でも、でてきたものはなかったことにはできないし、どこまで遡るか、それは自分でコントルールできる種類のことではないのかもしれないなと。
by umiyami | 2014-06-16 07:40 | 語ってみる