サビアンシンボルのわかりにくさを味わう
サビアンのわかりにくさを、わからないまま、味わう・・・
そういうことを考えてました。
わたしたちは、だれでもそうだと思いますが、
生きていると理不尽なことに、たくさん出会います。
人生は割り切れることばかりではない。
でも、そのわりきれなさを、
納得できなさを、
やりきれなさを、
臭いものに蓋をするように隠したり、
最初からなかったことのように、
ごまかしたりしないで、
わりきれないまま大事にあたためていこう、
そんなふうに思ったりしていました。
それが何になるのかはわからないけど、
くさいものが、もっと臭くなり、
しまいに腐り果てて、
いつか、
すっかり臭いになれたころには、
いい匂いの熟成された、
ワインのようなお酒になっているかもしれません。
まあ、納豆になったり、
青カビチーズだったりして、
やっぱりくせええ!ってなってるかもしれませんけどw
まあ、美味しかったらよしとしましょう、爆。
さそり座13度
「実験をしている発明家」
An inventor experimenting.
なんか、ワインとかチーズとか書きましたけど、
熟成過程の化学変化って、さそり座っぽいな・・って思いました。
さそり座の発明家は、
人と人の出会いによっておきる変化の、
実験観察をして成果をあげていく。
誰と誰が仲良しで、
誰と誰が反目しあっているか?
まだ直接出会っていない、
彼と彼女を引きあわせたら、どんな変化が起きるかしら?
13度は突出性、さそり座の13度は、
人間関係の掌握においてはちょっとおしの強さも出てきたり、
この人自身がカリスマとして際立った存在となって、
ひとを集めて、このひとを中心にひろがるコミュティができていく、
そんな感じもしてきます。
さそり座って、存在感あるんです。
ちょっと、謎ぽくて、気になる魅力・・・そんな感じ、かな。
サビアンシンボルはわかりにくいです~
って、よく言われます。
で、どうすればわかりやすくなるかなぁ・・・とか、
わたしも考えてきたわけですが、
これは実は無駄だったのかなあ~とか、
実は思ったりしています。
というのは、
サビアンシンボルって、
わかりにくいことに意味がある気がしてきたんです。
このまえ、加藤清さんの動画をブログで紹介して、
(なんかもう、いちいちマニアック過ぎて、
ブログ読んでくれてる数少ない読者さんに、
申し訳ない気がしてくるくらいですが、爆。)
で、このなかで、
加藤さんが、大本の出口ナオさんの
三千世界一度にひらく梅の花、
(全文は
「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ
神が表に現れて三千世界の立替え立直しを致すぞよ」
と、つづきますが、これは、
なんかすごい神代の宣言みたいな感じらしいです。)
わたしは宗教的なこととか、
大本のことには詳しくはありません。
で、まあ、加藤清さんが動画で、この、
おふでさきについて、話しておられました。
動画の中でも、解説はされてません。
これはすごい、
なかなかでるもんじゃない、
すばらしい、
創造の病であるというようなことを
おっしゃってました。
中山みき、
出口ナオのおふでさき、というのは、
昔、わたしは母から聞いたことがあったのと、
それとはべつに、古事記やホツマツタエの勉強会を通して、
古神道のT先生から教わったこともありました。
和歌はチャネリングであるということです。
(ものすごく前後を端折って単純化していますが・・)
そのことと、やはり、チャネリングであるサビアンが、
わたしの中では結びついています。
**********
詩は、隠喩からなる言語芸術です。
隠喩は可能性を暗示するでしょうか?
そうです、それはまた目に見える光景の影に隠れた現実をも暗示します。
隠喩は神の仮面であり、それを通して永遠というものが経験できるのです。
**神話の力より引用************
和歌にしても、現代俳句にしても、
あまり詳しく解説を加えることはおそらくしないと思うんです。
学校のテストじゃない限り・・
そういうのは無粋というか、もとの風情というか雰囲気ぶち壊し、
ってことになりかねないです。
古典文学の解釈にしてもそうですけど、
解釈でなく、鑑賞するような形で語ることを、
これからもわたしはやっていきたいなって思ってます。
で、サビアンに関して、
キリスト教の文化背景が云々、ということもよく指摘されますが、
ぶっちゃけ、突き詰めていくと、ナニ教でも同じになっていきます。
同じ神が違う仮面を被って語っているんだなーって、
ジョーゼフ・キャンベル先生の、千の仮面にあります。
ずーーーーーーっとしつこくやってたら、
だれでもきっと、そう感じられてくるんじゃないでしょうか。
そういうことを考えてました。
わたしたちは、だれでもそうだと思いますが、
生きていると理不尽なことに、たくさん出会います。
人生は割り切れることばかりではない。
でも、そのわりきれなさを、
納得できなさを、
やりきれなさを、
臭いものに蓋をするように隠したり、
最初からなかったことのように、
ごまかしたりしないで、
わりきれないまま大事にあたためていこう、
そんなふうに思ったりしていました。
それが何になるのかはわからないけど、
くさいものが、もっと臭くなり、
しまいに腐り果てて、
いつか、
すっかり臭いになれたころには、
いい匂いの熟成された、
ワインのようなお酒になっているかもしれません。
まあ、納豆になったり、
青カビチーズだったりして、
やっぱりくせええ!ってなってるかもしれませんけどw
まあ、美味しかったらよしとしましょう、爆。
さそり座13度
「実験をしている発明家」
An inventor experimenting.
なんか、ワインとかチーズとか書きましたけど、
熟成過程の化学変化って、さそり座っぽいな・・って思いました。
さそり座の発明家は、
人と人の出会いによっておきる変化の、
実験観察をして成果をあげていく。
誰と誰が仲良しで、
誰と誰が反目しあっているか?
まだ直接出会っていない、
彼と彼女を引きあわせたら、どんな変化が起きるかしら?
13度は突出性、さそり座の13度は、
人間関係の掌握においてはちょっとおしの強さも出てきたり、
この人自身がカリスマとして際立った存在となって、
ひとを集めて、このひとを中心にひろがるコミュティができていく、
そんな感じもしてきます。
さそり座って、存在感あるんです。
ちょっと、謎ぽくて、気になる魅力・・・そんな感じ、かな。
サビアンシンボルはわかりにくいです~
って、よく言われます。
で、どうすればわかりやすくなるかなぁ・・・とか、
わたしも考えてきたわけですが、
これは実は無駄だったのかなあ~とか、
実は思ったりしています。
というのは、
サビアンシンボルって、
わかりにくいことに意味がある気がしてきたんです。
このまえ、加藤清さんの動画をブログで紹介して、
(なんかもう、いちいちマニアック過ぎて、
ブログ読んでくれてる数少ない読者さんに、
申し訳ない気がしてくるくらいですが、爆。)
で、このなかで、
加藤さんが、大本の出口ナオさんの
三千世界一度にひらく梅の花、
(全文は
「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ
神が表に現れて三千世界の立替え立直しを致すぞよ」
と、つづきますが、これは、
なんかすごい神代の宣言みたいな感じらしいです。)
わたしは宗教的なこととか、
大本のことには詳しくはありません。
で、まあ、加藤清さんが動画で、この、
おふでさきについて、話しておられました。
動画の中でも、解説はされてません。
これはすごい、
なかなかでるもんじゃない、
すばらしい、
創造の病であるというようなことを
おっしゃってました。
中山みき、
出口ナオのおふでさき、というのは、
昔、わたしは母から聞いたことがあったのと、
それとはべつに、古事記やホツマツタエの勉強会を通して、
古神道のT先生から教わったこともありました。
和歌はチャネリングであるということです。
(ものすごく前後を端折って単純化していますが・・)
そのことと、やはり、チャネリングであるサビアンが、
わたしの中では結びついています。
**********
詩は、隠喩からなる言語芸術です。
隠喩は可能性を暗示するでしょうか?
そうです、それはまた目に見える光景の影に隠れた現実をも暗示します。
隠喩は神の仮面であり、それを通して永遠というものが経験できるのです。
**神話の力より引用************
和歌にしても、現代俳句にしても、
あまり詳しく解説を加えることはおそらくしないと思うんです。
学校のテストじゃない限り・・
そういうのは無粋というか、もとの風情というか雰囲気ぶち壊し、
ってことになりかねないです。
古典文学の解釈にしてもそうですけど、
解釈でなく、鑑賞するような形で語ることを、
これからもわたしはやっていきたいなって思ってます。
で、サビアンに関して、
キリスト教の文化背景が云々、ということもよく指摘されますが、
ぶっちゃけ、突き詰めていくと、ナニ教でも同じになっていきます。
同じ神が違う仮面を被って語っているんだなーって、
ジョーゼフ・キャンベル先生の、千の仮面にあります。
ずーーーーーーっとしつこくやってたら、
だれでもきっと、そう感じられてくるんじゃないでしょうか。
by umiyami | 2015-11-05 01:43 | 雑記